都古流の特色

柳と桜 混ぜ生け
柳と桜 花器は初代遺品の
『一阿弥好み』

都古流は1902年、流祖磯貝一阿彌がつくったいけばなの流派です。創流時の理念は『お生花にも時代に合わせた自由さを』。

お生花はいけばなの古典様式として知られています。床の間に飾られるべき花としての格調高い様式は、古典ゆえの様々な決まりがありますが、初代はその決まり事の中には時代の流れに呼応して変化しても良い部分もあると考え、新たな流儀「都古流」を作ったのです。

その為、都古流のお生花には創流時から、伝統の古典お生花はもちろん技巧を凝らして曲線の美を追求する「曲生け」や、複数の花材を混ぜて艶やかな彩りを楽しむ「混ぜ生け」など様々な生け方が取り入れられてきました。

日に日に新たな美しい花が作られている現在では、その花との出会いを愉しみ取り入れ、現代空間に取り入れることの出来るモダンインテリアとしてのお生花にも積極的に取り組んでいます。

『都古流』という流名の由来

『見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の 錦なりけり』

これは古今和歌集の素性法師の歌です。初代家元は、この歌より『都』の文字を取り、新しい流派の名を『都古流』と名付けました。

柳と桜 二重切り
柳と桜 二重切り 4世一阿弥作

一阿彌(家元の雅号)の由来

初代から受け継がれている『一阿彌』という雅号は、空也念仏の本山紫雲山先勝寺極楽院から贈られたものです。

空也念仏
空也念仏の皆様。左端が2世一阿弥

都古流の歴史

都古流は1902年に磯貝一阿彌により葛飾・堀切で創流されました。

磯貝一阿彌は万延元年(1860年)生まれ。この年には「桜田門外の変」が起きています。そしてその後、幕末から明治へと時代は目まぐるしく変化を遂げます。時代の流れや人々の暮らしの変化を肌で感じながら思春期を過ごした先達が時代の変化に応じた花を求めたのは、ごく当たり前の事だったのかもしれません。1902年、42歳で都古流を創流しました。初代水戸黄門・東野英二郎さん似の初代は、ドラマに描かれたご隠居のようによく笑う人だったそうです。

初代一阿弥の写真と
2代目一阿弥

その後、1942年に2世・小林一阿彌が流儀を継承し、東京・中野に拠点を移しました。1945年に終戦を迎え人々に平和が戻ると、乾いた土地に水がしみ浸み込むように、いけばなは生活の潤いとして少しづつ人々の日々の中に戻ってきます。2世はいつも穏やかに花と生徒さんに向き合い、花のある生活の豊かさを説きました。怒った顔を見たことが無いと、古い生徒さんから聞いています。

2世(右)と3世(左)

1963年の2世の急逝により代は変わり、3世・小林一阿彌の時代。いけばなは隆盛を極めました。「お茶とお花は花嫁修行」、ほとんどの女性がお稽古していたのではないでしょうか?3世は2世の妻で都古流初の女性家元でありながらより力強い作品を多く残しています。沢山の生徒さんたちを育てた3世は「明治女の意地」を口癖に、江戸っ子らしく小気味よくぴしぴしとお稽古をしていました。

臥龍梅 陰の姿
臥龍梅陰の姿 4世一阿弥作

2000年を迎え3世は引退、4世小林一阿彌が流を牽引する時代。豊富な花材に後押しされるように、再現不可能といわれていた様々な創流時代の伝花を蘇らせました。4世は3世の年の離れた妹で、2世襲名時より縁の下の力持ちとして流の花を支えて来たため、その技術と知識は歴代一とされ、また豊かでユニークな発想は新しい花材との出会いで新たな都古流の一面を切り開きました。花も人柄もユニークで、笑いの絶えない人でした。

そして今、都古流は5世一阿弥の時代を迎え、歴代家元の築いてきた都古流の理念と花型を今の時代に伝えながら、生徒さんと共に令和に似合ういけばなを生けるべく進んでいます。

都古流は2022年に120周年を迎えます。

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